無料ブログ作成サービス JUGEM
人生バランス論

 2017年 1月25日 山中湖 ダイヤモンド富士

 

今年も早くも2月、正月以来、何となく過ぎた日々では有りましたが、幾つかの出来事はそれなりに我が人生訓に思い至る思いがけない事でした。

つい先週、私は所用で、ある高速道路を走っていました。その時何を考えていたかは思い出せないのですが、とにかく無意識に追い越し車線に入り、数台の車を追い越して、全く自然に走行車線に戻って走っていました。その時、確かに無意識ではあったのですが、追い越した車数台のスピードがやけに遅いな、とだけは微かに感じたのです。そして走行車線にもどった時は、例えばサッカーでのオフサイドトラップに掛かったような、ちょっと不安な気持ちが湧いていたのです。

 

       山中湖

 

その不安は的中しました。ふと横を見ると、いつの間にか屋根に赤色灯を点けた1台の車の助手席の男が、私に向かってマイクでこう言うのです。「はい、シルフィの運転手さん、この車の後についてきてください」。そして、数百メートル走った道路の退避スぺ―スに車を誘導されたのです。それは、まさにテレビで時折見る、「警察密着シリーズ」そのものの情景でした。「23キロオーバー、罰金15,000円」。私は制限速度80キロの高速を103キロで走っていたらしいです。30年ぶりの日本での違反、そして帰国以来15年間保ってきたゴールド免許が消えた瞬間でした。それにしても、あの退避場所の適宜を得た場所、あれはまさに警察がオフサイドトラップを仕掛ける絶好の位置に違いない。まんまとそれに引っかかったのだと、悔やまれるのでした。

 

 

こうして、年男の今年の出だしは必ずしも順調ではなかったのですが、本当はこの出来事はそれほどショックでもないのです。

話は一か月間に遡ります。今年もらった年賀状のお年玉くじで2等があたり、3等の切手シートも5枚と例年よりも多く当たりました。この他にもいくつかの思いがけない実入りが、年男の新年を飾ってくれたようで「これは春から・・・」と思っていた半面、心のどこかで、この幸運も清算することになるな、っと思っていたのです。

 

    西湖近く 野鳥の森公園

 

これまでも、何度か書きましたが、私の人生訓の一つとして「損得バランス」が有ります。何も金銭だけの事ではなくて、様々な事象についても、山あれば谷、損有れば得、と、どこかでバランスを整えてこそ人生だ、と戒めとも自嘲と分らない、心の片隅の哲学なのです。


     河口湖

 

そして、思うのです。あの車の罰金は15,000円、年賀状の2等と3等のお年玉景品の金額換算総額はどう見ても4,000円弱。金銭貸借上の損得バランスはマイナス11,000円。つまり、バランスするにはまだ幸運の余裕がだいぶ残っている・・・、って事で。手グッド

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

    写真展のお知らせ

 

今年も我が写真クラブの写真展を下記の要領で開催します。ついでの際にでもお立ち寄りください。

 

1.名称:第17回 写写塾写真展 「自然と共に・・」

2.期間:2017年2月10日(金)〜2月16日(木)

  時間 平日10:30〜19:00

     土日11:00〜17:00

     最終日10:30〜14:00

3. 場所 : 富士フォトギャラリー銀座

              東京都中央区銀座1丁目2-4

     サクセス銀座ファーストビル4階

     クリエイト銀座本店

4.アクセス:メトロ銀座線「京橋」3番出口徒歩1分     

       メトロ有楽町線「銀座1丁目」7番出口徒歩1分

  URL   http://www.prolab-create.jp/gallery/ginza/

                      (URL の中に会場の地図が有ります)

 

ご来場お待ちしています。

瓜生真二郎。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

http://www.prolab-create.jp/gallery/ginza/

| 老真 | - | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
雲南シャングリラの旅(2) もう一つの景色

 今年のベストショット梅里雪山(6,740メートル)16年10月22日 

 

今回の雲南旅行では、数々の素晴らしくエキサイティングな光景に出会うことが出来ました。とりわけ、梅里雪山の日の出の神秘的な光景を始め、氷河展望台からの雄大な眺め、牧歌的なシャングリラ、チベット寺院松賛林寺の荘厳な佇まい等、十分に旅行の価値を実感することが出来ました。しかし、万事がすべてうまくいくはずもありません。この種の旅の常として、期待を裏切る光景や情景もいくつかありました。今回はちょっと失望遍です。

 

     2016年10月19日 麗江の夜景

 

失望の初めは麗江の街でした。もともと麗江は雲南・四川のお茶とチベットの馬を交換するいわゆる「茶馬街道」の拠点として宋代の初期から元代にかけて発展した古都なのです。つまり、今から700〜800年前の事。そこには素朴な人々の交歓の場が有ったに違いないのです。確かに郊外の高台から見下ろす黒レンガの家並みは、その時代を偲ばす景観です。しかし、その黒レンガの下の家々のほとんどすべてが、何らかの商いをする現代的なたたずまいで、ちょっとばかり厚化粧の、まるでどこかのテーマパークにでも来たような違和感に陥ります。さらに、夜のライトアップの時間ともなると、どこから集まるのか大勢の人々でごった返し、往時の情緒を偲ぶよすがは何もないのです。もっとも、私自身も観光客の一人として、その「大勢の人々」を構成しいる一人ではありますし、それを求めるのは外来者のわがままなのかも知れませんが・・・・・。

 

 

麗江には街中をこのような水路が方々にあります。

この洗濯場は一番上の区切りでで食べ物を、次は食器を

そして一番下では衣類や靴を、と使い分けています。

 

そしてもう一つ、今回のツアーで最もエキサイティングな行動の一つに玉龍雪山展望の4,506メートルの高地まで行く事がありました。それは、5年前の九塞溝への道で通った4,200メートルをしのぐ人生のの最高到達点であるはずでした。果たして古希を過ぎたこの身に、この高さに耐え得るかどうか一抹の不安が無いでもなかったのですが、好奇心の方がそれに勝り意気込んで臨もうとしたのです。所がなんと、旅行前に旅行社から知らせが有って、そこまで行くケーブルカーが保守点検のために運休。4,500メートルへの未知への体験は空振りに終わったのです。そして、今回のツアーの最高地点は4,294メートル、過去とほぼタイ記録にとどまったのです。

 

長江(揚子江)上流。メコン川、サルウイン川、との3江

併流場所。金沙江第1湾(オメガ商標に似ているから別名オメガ湾)

 

失望ついでにもう一つ。今度は自分自身の写真撮影技術です。この旅行に行く1か月前、写真塾のメンバーと乗鞍高原に撮影旅行に行き、そこで満天の星の撮影テストを行い、それなりの収穫はあったのです(10月の「どこかの秋に」に掲載)。そして徳欽のホテルの梅里雪山が臨める場所で、満天の星の撮影機会が有ったのです。ホテルで夕食後、私はちょっと専門家ぶって「星空撮影をしよう」と同行したMさんと、ツアーの中の唯一の若い女性Gさんとそのお母さん、同年輩のMIさん夫婦を誘ってホテルの屋上に上がって撮影をしました。長時間露光すれば梅里雪山の白い稜線の上に満天の星の輝きが写り、帰国後の写真コンテストの応募写真の最有力候補として、十分に手ごたえを感じるロケーションでした。

 

金沙江の虎跳渓。長江の中でも川幅が狭く

虎が飛び越えて渡ったという伝説がある。

 

ところがなぜか、30秒露光したはずの画面には何も映らないのです。乗鞍高原で映した手順どおりのはずですが、シャッターをマニュアルにしてもオートにしても、ケーブルリリースを付けても外しても、画面は真っ黒のまま。一緒に星空撮影に行ったメンバーには、それまでは、昼間に撮った写真を見せて、ちょっと得意げになっていた「私の専門性」が瓦解した瞬間でした。同部屋のMさんから「Gさんにいいとこ見せようとし過ぎて手順が空回りしてんじゃないの?」と揶揄されるばかりでした。

そして二日目の夜にも密かにリベンジを試みたのですが、やはり状況に変わりありません。どこか、肝心の何かの手順が飛んだのでしょう。写真コンテストへの出品も断念です。写真撮影の未熟さを痛感しつつ絶好のロケーションを前に、何だか大きな魚を取り逃がしたようで、ちょっと無念・・・・。


雲南省に住む各少数民族のデモンストレーション 玉龍雪山を臨む

屋外劇場。

 

・・・・とまあ、失望することも有ったけれど「人生バランス論」は私の人生訓。いい景色が見られたし、幸不幸、運不運、どこかでバランスしてこそ、精神に均衡が保たれる、と思っているのです。 ‐完- 。

 

   シャングリラでの民族ショー

 

後記−

今年ももう残る所5日。いつの間にか「雲南シャングリラの旅(1)」を書いて2か月近くが経ちました。本来ならもっと早く続編(2)を書こうと思っていたのですが、途中、パソコンが動かなくなってしまい、その回復に手間取っているうちに時も経ち、雲南の旅の思い出が少しづつ遠ざかって行ってしまいました。ともあれ、修復後のパソコンの壁紙としている梅里雪山の写真を見るにつけ、なんとか年内にと思い、漸く続編(2)に着手した次第であります。

 

シャングリアから松賛林寺に行く路線バスの中。プラスチックの箱は

料金箱。一律1元(15円)。乗客はこの中に料金を入れ、おつりが

必要な場合は自分で箱の中から取っていく。この間、運転手は全く

無関心。公共機関の中国の社会主義体制を垣間見る。


今年も1年間、拙いブログを覗いていただきありがとうございました。今年のブログ更新は9回、昨年は13回、一昨年は18回と漸減です。加齢による肉体的な衰えは全く感じないのですが、精神的な気力はどこかで衰退しているのかもしれません。来年はもっと頻度を上げ、せいぜ脳を刺激していきたいと思います。

では、よいお年をお迎えください!カメラ  バイバイ  

 

 

 

 

 

 

| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
雲南シャングリラへ(1) 神の山 梅里雪山

         写真1 徳欽の村

      写真2 夜明け前の山

1021日、朝6時50分。天気は快晴。その日私は、中国雲南省徳欽(とっきん 写真1)の小高い丘の上から、西に聳える山々を眺めながら、日の出を待っていました(写真2)。徳欽は中国の西の果て、山を越えればミャンマーです。緯度は那覇と同じくらいですが標高は3,500メートル。空気は薄く、気温は8度。朝の冷気が身に沁みます。日の出は725分前後。日の出までまだ30分。でも昨夜見た、降るような星空は、もうとっくに影を潜め、辺りは白々とし始め、山の輪郭も次第にはっきりし始めました。(写真3)

 

          写真3

私がこの梅里雪山を見たいと思ったのは、以前、何かの写真集で見たこの山の凛とした姿、槍の様な尖った頂上から麓に向かって衣がたなびく様に山裾が広がって、優美で神聖な気配がする景観に一目で惹かれたからです。案の定、この山の景観は世界一美しい山ともいわれていることを後で知りました。さらに、チベット教徒の信仰の山で狄世了“とも呼ばれていました。

 

後で知った狎こΠ貳しい神の山“、それはまさに私が最初に写真集で見た印象を裏付けるものでした。そしてさらにもう一つ、ここが、英国人小説家が書いた「失われた地平線」に登場する理想郷シャングリラ(桃源郷 写真4)が近くにある事も、何だかこの名前の響きに誘われるほのかな郷愁と相俟って、よし、中国旅行の仕上げとしてはここだ、と思ったのです。

 

   写真4 シャングリラ郊外 納帕海(季節湖)

 

 ともあれ、その日は快晴。私の周りにも数人の人が集まり始め、日の出の時を待っていました。そして、それはまさに不意に訪れました。連峰の一番高い山の頂に、まるで誰かが突然スポットライトを当てたようにポッと柔らかな明るい光が灯もったのです。日の出です。背後からの日が、槍の様な峰の切っ先に当たりました(写真 5)。

           写真 5
その光景は、想像した以上に劇的で、何だかシャッターを押すことさえ憚れるような神秘の一瞬でした。まず私の脳裏に真っ先に浮かんだのは狹径更瀘“と言う言葉。特に信仰深いわけではないのに、そして、その意味もあいまいなままに、ここが異国の、異教徒の信仰の山であることを忘れ狹径更瀘“とつぶやいていたのです。純粋に、単純にそう思いました。それ以外の言葉は見つかりませんでした。やがて神は首元まで降りると(写真6)、今度は次の高い峰へと姿を移したのでした。(写真7・8)。
          写真 6
          写真 7
         写真 8

神は淡々と一連の儀式の様に峰々を照らし終えると、白い天使の衣を纏って稜線を下って行きました(写真9)。近くにいた中国人の若い女性が「好美!好美!(ハオメイ!ハオメイ!何と美しい!)」と今にも泣き出しそうな声で何度も叫んでいました。

 

           写真 9

 

そして思ったのです。この瞬間を見ただけで、昨日は雲に隠れて見えなかったもう一つの高峰玉龍雪山(5,596メートル)への失望も、連日の早起きも、高めの旅行費も、高山病による軽い頭痛も、うんざりモードの朝昼晩の連日の中華料理攻めも、ホテルのうるさい空調も、汚いトイレも、扉が無いトイレも、流れないトイレも、いやそればかりではない、異国での青空トイレでのキレの悪さも、さらには中国嫌いの友人達の、私の中国旅行に対する誹謗のささやきも・・・それらの全てを包み込めた・・・。と、率直にそう感じたのです。

ー(2)へ続く―。

 

 

        写真 10 (梅里雪山氷河)

 

白范雪山 峠越え 標高4,292メートル

 

 

 

| 老真 | - | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
どこかの秋

  2016年10月7日 乗鞍畳平付近から

 

このブログ、気が付けば5か月以上も更新していない。この間、何度かは書き始めてはいたのだが、これと言った話題も、写真もなく、何となくやり過ごしている間に、あれよあれよとばかりに時が経ち、季節は廻って夏を越え一足飛びに秋になった。が、秋とはいっても今年は長雨が続き、幾つかの屋外活動は天気との兼ね合いを図りながらで、どうも少しばかり盛り上がりに欠ける。もしかしたら、このブログの長期未更新も、天候のせいかもしれない。

 

  円盤の様な物は 蜘蛛の巣 拡大して見てください。

 

そんな中、かねてから予定していた乗鞍高原への写真塾の旅行は、台風の余波も消えて、珍しく好天。いつものこの会は雨にたたられているのに、この雨の多い今年、ジンクスに反して好天の中での活動となったのは、何だかおかしいぞ。そしてやはり、何事かがうまくいかないこの会のジンクスどうり、期待していた紅葉は時期尚早。会の幹事として、一年前の遅すぎた紅葉への反省は、今度は逆に早すぎた反省となって、季節の足取りとの日程調整の課題は残る。

 

    2016年10月6日 乗鞍一の瀬園地

 

しかし、すべてに失望したわけではない。高原の澄み切った空、夜の帳が降りた頃、夜空は満天の星に飾られた。写真塾3年生の私は、これまで星空を撮った事はない。満天の星空に誘われ、天文写真に詳しいSさんに頼んで、星空撮影にチャレンジしてみた。


          30秒露光

 

これでも、自分ではまあまあの出来だと思っている。もう少し準備をしてれば、あの夜空に弧を描くようなの星の軌跡を撮れたのであろうが、標高2,000メートル近い屋外にじっとしているとこの時期でも寒い。今度はもっと厚着をして星空にチャレンジしてみたい。

 

  天の川 後方の山は乗鞍岳

 

それと、近々、もう一度、山の夜空を見る機会が有る。それは、乗鞍高原よりももっと高い、雲南省の山地だ。日中関係はいまだぎくしゃくが残るが、ここだけは以前からに行きたかった。麗江という世界遺産の古い街から玉龍雪山、梅里雪山等々、標高6,000メートル級の山々を展望し、小説「失われた大地」で知られるシャングリラを巡るツアー旅行に参加する。6,000メートル級の山々を展望するには4,000メートルを超える所まで行く為に、高山病との戦いになるが、まだ体力には自信が有る、何とかなる、・・・はずだ・・・。もう一つの秋を見つけに。

 

          乗鞍 畳平より

 

ともあれ、その顛末は、帰国後にまたこのブログで。

 

 

 

 

| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
柳瀬川の雉

   2016年5月22日 柳瀬川 左岸

それは五月の初めの夕方、いつもの散歩道である柳瀬川の土手を歩いていると、どうも雉に似た鳥の鳴き声が聞こえた。写真愛好家の私としては雉は鳥の中でも最もエキサイトするターゲットの一つだ。いつかの日だったか、友人の情報をもとに、雉を求めて数十キロも離れた所まで追っかけていったことも有る。それがもし,いつもの散歩道に現れたとすると、その興奮は高まる。

しかし、その後数日
、重たい望遠レンズを持って、注意深くあたりを見渡し、耳をそばだてて歩いたが、あの声を聞くことはなかった。やはり、こんなところに簡単にキジなど現れるはずはない。あれは雉に似た別の鳥か動物の鳴き声で、雉を思うが故の幻聴だったのかも知れない。




その後、撮影旅行で数日間留守し、散歩の間隔があいた事で、もう雉の事はほとんど忘れて、カメラも持たないいつもの歩きとなった。そして、その日も、旅行の事などを思い出したり、上空の飛行機雲の動きを見ながら歩いていた。ところが、右岸から橋を渡って左岸に渡ってしばらく歩いていた時、何気にふと川渕に目を移すと、いた! 雉だ! あの雉が!、川の水際のコンクリートの淵の上を悠然と歩いていた。しかもあの五色豊かなオスの雉だ!なんでこんな時にカメラを持ってこなかったのだろう。時々起こるこの種のタイミングの悪さにに臍を噛むしかなかった。それでも、慌てて家に戻り、カメラに望遠レンズを付けておっとり刀でその場所に戻ってみたが、夕刻の30分は鳥の活動の変化を追うには長すぎた。もう水際のあの雉の姿を見かける事はなかった。



それでも次の日、今度はいつもの夕方の散歩ではなく、朝から望遠レンズを持って一日中でも探し求めるつもりで、あの場所に向かった。その心構えが功を奏したのか、あの雉は意外にすぐに現れたのだ。ものの10分もしない内に土手を挟んで反対側の田んぼの畦道にその姿を見せた。望遠を構えて静かに追った。雉は、逃げ足に自信が有るのか。20メートルくらいの近さに近づいても、草を食みながら悠然と歩き、そしてなんとポーズでもつけるように、まるで私だけに見せる特別なショーの様に、田んぼ畦道の上で羽ばたきをし、口を開けて高らかに鳴いてくれたのだ! 私はただ夢中でシャッターを切り続けた。




「キジも鳴かねば撮られまい?」いや違う、雉はきっと言った「私は鳴く、踊る、さあ撮ってごらん」。誰もいない田んぼの中の、雉と私だけの20メートルの空間の劇場。なにも恩を売ってはいないのに、まるで「キジの恩返し」のように、私だけを相手に踊ってくれたのだ。いつの間にか、雉との無言の会話が続いたような特別な不思議な時間だった。もう、何枚シャッターを切っただろう。

その後、あの感動の出会いから既に1週間が経過したが、あれ以来あの雉の姿は見えず、声さえも聞こえない。何だかあれが、たった一日だけの幻のパフォーマンスだったのか、感動の後にしばしば起こる、あの夢と幻と現実の中の葛藤。

しかし、こうして確かに画面には残っている。又いつの日か、あの雉の踊りを見るために、私のいつもの散歩は、しばらくはあの重い望遠レンズのカメラを持って歩く事になるのだろう。


*写真は拡大して見てください。
 
| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「無意識」への抵抗
  
        2016年 4月15日 渡良瀬鉄道

 
いつも愛用している小さな歩数計が行方不明となった。縦3センチ、横6センチ、厚さ1センチくらいの小さな物だ。歩く時はズボンかバックのポケットに入れて、夜にはパソコンでの歩数管理の為に必ず机上に置く。このパソコン管理は日記みたいなものだから、旅行にでも行かない限り必ず毎日記録している。見つからなくなった前夜はパソコン入力しているから机上に有った事は間違いがない。そして、私の部屋は妻が洗濯物を置きに来る以外は誰も立ち入ることがない。この翌日、徹底的な捜索をした。すべてのズボンや服のポケット、バック、机の上下、引き出しの中、ベットの下、果てはゴミ箱の中まで徹底的に探したが見つからない。忽然と消えたのだ。忽然と・・・・。



たかが歩数計。例えそれを無くしたとしてもそれほどのショックはない。が、その消失の原因が思い当たらない。悶々が続く。

所が数日後、行方不明の歩数計は全く思いがけない所から発見された。机とは部屋の正反対の数メートル離れた所にある本棚に置いていた病院関係のA4の封筒の中からだ。なぜ、ここから? まるで、トイストーリーのおもちゃ達の秘密の連携プレーのように、秘密裏に全く縁もゆかりもない場所へ歩数計は数メートル動いていたのだ。

一体なぜここから? 確かに最近、ポケットの多いバック等に無意識に財布や携帯電話や本を入れ、果たしてどのポケットに入れたのか、そして、どうしてそこに入れたのか、わが身を疑う無意識の中の事実がしばしば起きる。歩数計もやはり無意識のうちに、だろうか。しかし、これが無意識だとすると、自分への疑いが一段と高まるが。





無意識だけの問題ではない。以前泊まったことが有る温泉の風呂場で、脱衣かごに入れたはずの部屋の鍵が行方不明になり、旅館のフロントを巻き込んだ騒ぎとなった事が有る。フロントの人が探してくれた結果、カギはやはり脱衣かごの中で見つかった。かごの手前の淵に張り付いており、それが死角になって分からなかったのだ。落ち着いて探せば見つかったはずだが、その時、脱衣所にはどう見ても泊り客ではない、浴衣着ではなく私服姿の一見ちょっと怪しげな一人の男が出て行ったばかりで、それが先入観となって「奴は怪しい!」との思いから早合点したのだろう。因みに、あとで分かった事だったが、その「怪しい男」は別の団体のツアーコンダクターで、どうやら風呂場の下見に来ていたらしい 温泉 冷や汗

無意識や早合点。これをシニア的特有現象で括れば話は簡単だ。が、しかし、今回の場合、ちょっと事情が違う。あの歩数計は夜まではいつもの置き場所である机の上に有った事はまぎれもない事実。その証拠にパソコンでの前夜の歩数記録が残っている。
しかしそれでもやはりあれは無意識に入れたんだとしぶしぶ観念し始めた頃に「事態は動いた」。移動の理由が分かったのだ。その日、歯医者に行く為に歩数計を発見した病院関係の書類を取り出して机の下に立てかけていて、ふと見ると、そのA4の封筒の口はかなり大きく開いていたのだ。中に分厚い書類が入っていたせいなのだろう。それは、上から落ちた歩数計を受け止めるには十分な広さだ。そして「あの時」も確かにこの封筒を机の下に立てかけていたことを思い出した。きっと、机の上の歩数計が何かのはずみで下に落ち、そのままあの封筒に飛び込んで行った・・・のだ。やはり、無意識ではなかった。無意識ではないことを意識して、ついにその原因を突き止めた 
拍手

 


そして考える。齢を重ねるとこのような無意識や早合点を「あー、年のせいだ」と安易に結論付ける。それはきっと、人や物との関わりへの機会が減って、その対処が鈍くなって、面倒な思考を避けて、短絡的な思考となってしまうからなのであろう。しかし、今回は[無意識」に抵抗して成果?を得た。まだ私も捨てたものではない。たかが古希の歳。老けるのは早い。アンチエイジングに挑むために、もう一度、自身の振る舞いを意識する。無意識と早合点からの脱却。その為にも、まずは立ち居振る舞いから。人を疑う前に自分を疑う、決して人前でバックや服のポケットの中をまさぐる事は止める(なるべく)。そして例え、失った物が見つからなかった時も一旦は冷静を装う。無意識と早合点からの脱却。まず、たたずまいからの見直す。アンチエイジへのあくなき抵抗として。鼻息 ヤッタv


 2016年5月 埼玉県鳩山 岩殿観音
| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ブーメランの行方

   2016年4月3日 柳瀬川

家の前を流れる柳瀬川の土手に立って深呼吸をした。甘い空気の香りがする。地面に散った桜の花びらがの香りなのか。薫風という言葉を思い出す。今年も季節が慌ただしく去って行く。冬と春の二つの季節の中で、いくつかの出来事が、世間を揺るがす大きな出来事が、いつもとはちょっとは違う関心と回想を誘う。

1990年から6年間ほどベルギーのブリュッセルに住んでいた。そのブリュッセルの町中に、我が家から車で10分ほどの所にヴォルウエという広くてきれいな公園があった。赴任早々、まだ友達がいなかった小学6年生の息子を連れて、週末ごとにこの公園でキャッチボールやトスバッティングで遊んでいた。毎回二人でやっていたのだが、いつの日か気が付くと、ずっと我々の野球遊びの様子を見ている一人の少年がいた。その少年は翌週も、その次の週も、我々の野球を傍らでじっと見ていた。ある日、私が「やってみる?」と言ってバットを差し出すと、少年は待ってましたとばかりに嬉しそうにバットを握った。野球には全く馴染みのないベルギーで、彼にとってはおそらく人生で初めての事だっただのだろう。野球慣れしていない彼のスウィングは、なかなかうまくボールに当たらなかったが、あの好奇に満ちた目の輝きは今でも脳裏に浮かぶ。その後、雨の日を除き、週末ごとにあのヴォルウエ公園に行くたびに、件の少年が駆け寄って来ては、私はいつものように彼にバットを渡し、グローブをはめさせて、いつしか3人での野球となった(言葉は全く通じなかったけれど)。その後、息子には日本人の友達ができ、私との週末のあのヴォルウエ公園行きはなくなり、私も少年とは会わなくなった。アラブ系の浅黒い顔で目の輝きが印象に残る少年だった。少年はその後もきっと何度かの週末は、我々の来ないあの公園で、今度こそはいい当たりを、と待っていたのではないかと思うと、少し心が痛む。



       柳瀬川

それから6年後、私の仕事場はブリュッセルからパリに移った。家族は日本に帰国し、いわゆる単身赴任の始まりでもあった。そして、忘れもしない1997年12月31日、正月休みを過ごすために1人でスペインのマドリッドに行った。翌日の新年一日、クリスチャンでもないのに物見遊山から、マドリッドの小さな教会での新年のミサに行ってみた。カソリックの教会の中のミサはやはり厳かであった。ミサが終わって出がけに教会の出口に座っていたホームレスらしき男の前の皿に、なにがしかの施しをして、何やら初詣を済ませたような気分で外に出た。そしてそれは、教会の裏手の狭い路地を歩いてる時だった。誰かに背後から不意に、しかしフンワリとした優しい手で両目を覆われた。それはまさに友達がふざけて「だーれだ?」をするような手つきであった。「ん?こんな所で誰かな?」って振り返ろうとした瞬間、二人組の男に羽交い締めにされて、一人からナイフを突きつけられた。一瞬怯んだ隙に二人組は私のショルダーバックをひったくって逃げた。私は、声も立てず必死で二人組の後を追った。しかし、心のどこかでは二人に追いつきたくない、というへっぴり腰の追跡だから追いつくはずはない。二人が路地裏のコーナーから消えたとき、「命は助かった」となんとも言えない不思議な安堵を覚えたものだった。あの目隠しの優しい仕草は、油断させるための手段だったのかどうかはわからないが、あとから、あの柔らかい手の感触が逆に恐怖を増した。そしてその二人組の暴漢も顔が浅黒いアラブ系の男達だった。


   2016年4月4日 新河岸川

時は下って2016年3月。つまり今年3月。ベルギーのブリュッセルで痛ましいテロが起こった。ベルギーは英・独・仏の大国の狭間にありながらも、忍耐強く物静かに伝統を守り続ける、緑豊かな落ち着いたとてもいい国だ。そこでテロが起こるなど思いもよらいない事だ。そしてそのテロで不運にも邦人も2人傷ついた。そのうちの一人は、何とブリュッセルのP旅行社で働くHさんだった。私は、パリに移っても旅行のチケットは懇意にしていたブリュッセルのこのP旅行社で調達していた。マドリッドで暴漢に襲われた時の航空チケット、ホテル予約もブリュッセルテロ事件で負傷した邦人が働くこのP旅行社で調達した。因みにこの旅行社の社長は、私が帰国後に勤めた会社の依頼で顧客向けの月刊誌にブリュッセル事情を寄稿してくれた人であった。

勿論、あのブリュッセルの野球少年も、マドリッドの暴漢も、旅行社のHさんも、ブリュッセルやパリのテロも、偶然に出会い、偶然に起きた出来事で、私とは本来何の因果もない。ただ、アラブ系、テロ、かつての生活圏というキーワードで括ったとすれば、色々と絡み合うものがあり、本当は何かの因果かも、と考えたくもなる。

そして、さらに因果を進めると、今回の熊本大地震。来月の半ばに以前から計画していた、大分湯布院での親族の集まりが中止になった。湯布院への交通と震源地そのものも湯布院地方に広がっている為だ。しかし、それだけが因果ではない。実は、今回の地震帯の延長上の別府湾には420年前に大地震で一夜にして沈んだと言われる幻の島がある。その島の名は「瓜生島」。つまり、私のルーツに繋がる島である。



  2016年4月5日 柳瀬川

このブログ「どこかの細道」を始めて10年が経つ。最初は趣味の散歩の行き先々の事をしたためていた。そしてその中で、いつかは歩きつく終焉の場所を「瓜生島」にしたいと書いたことがる。今回の地震で図らずもその「瓜生島」にたどり着いた。



ひとつ書き忘れたことがある、あのブリュッセルで一緒に野球をした少年の事だ。彼はバットで打つときは左打ち、投げるときは右投げだった。つまり基本は右利きなのであろう。なぜ左でバットを振ったか思い当たる事がある。私の息子が左利きで、左打ちをしていた。初めて見た野球。少年は息子のバッティングスタイルを見て、バットはそうやって振るものだと信じていたのだ。そして、初めてはめたグローブは右利きの私のもの。それを一つの思想に置き換えると、純粋無垢な思想に飛び込んだ「初めての思想教義」のインパクトは、簡単には脱することができない大きさなかもしれない。ブリュッセルで出会ったあのアラブ系の少年も、今ではあのテロの首謀者の歳になっているはずだ。


2016年 4月3日 柳瀬川(いつもの散歩道)花見客


  2016年 4月7日 雨の柳瀬川(いつもの散歩道)

柳瀬川の土手の桜はもうすっかり新緑の装い。ひと組の集団がバーベキュウをしている傍らで、仲間の若者がブーメラン遊びをしていた。そして、一人が投げたブーメランが河原に戻る途中で川の中に落ちた・・・・・。




閑話休題
実はふと、この因果を期にこのブログも終わりにしようと思った。なんだかそれが一つの潮時としてはドラマチックな終わり方、と考えたからだ。その事をかってパリで一緒だったNZ在住のFさんにメールで伝えると、日本を偲ぶ読み物として、毎月更新を待ってくれているようだし、級友のS君の奥さんも、
福岡のトシユキ君もこの拙いブログを読んでくれているようだ。ならば、あの終焉の地と定めた場所に自分の足でたどり着くまでは続けるか・・・。






 
| 老真 | - | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
棚田七変化 −カメラの眼−


 
     
年に一度の我々写真クラブの写真展が終わった。私の展示写真は上の2点。すでに以前にこの「どこかの細道」で掲載したことがあるものだ。この2点に関する写真展の評価は、紅葉の写真はわりと評判は良かったが、下の棚田の写真は「その道のプロ」達の厳しい批判の的ともなった。批判と言っても目くじらを立てられるほどのことではなく、微笑みながら、からかうごとく「これ細工したでしょう?」って感じの加工、着色「疑惑」である。なるほど私はプロでないが、もしこれが他人の写真だとすると、やはり同じ疑惑を抱いたに違いない。ここは冷静にこの写真の出来上がりの成り立ちについて思い出してみる事にする。

その前に、この棚田の場所と規模について。
この棚田は中国雲南省の元陽県一帯に広がる棚田である。日本の棚田ように一畦毎の大きさや形が統一されておらず、それが故にアートのような象形をなし、その広さと共に圧倒される。ここは一つの山だけにあるのではなく、一山越え、ふた山超えて、途方もなく広がっている。全て人力で作られた田は1200年前の唐の時代から面々と築き上げられたものらしい。海抜が1,200メートルから2,000メートルの間まで何と5,000段以上も続く。これを作り上げたのは雲南省の少数民族ハニ族である。稲作の起源は揚子江近辺のあまり高低差がない所であるから、川のないここの棚田は、環境に適応する必要に迫られ、高低差を利用した少数民族の知恵から生まれたものであったのだろう。

さて、この写真の棚田の無色の水である。水に着色しているわけではない。田植え前に水を張っただけの田んぼだ。そこに朝日や夕日が当たると水の色が様々に色に変化する。

日の出前、薄明かりの雲間に見える水面はまだ白い、




霧が晴れ、日が登る、水面が動く、朝日と絡む



雲間から差す日が畦に当たり水面に照り、水の繕いが始まる、
それは一瞬、




日が高くなり、雲間は消える
  

やがて太陽が昇り、水面は青い空を写す



そして日が暮れる



元陽棚田の一日は、気象条件によって様々な色の変化が生まれる。私はただ単にPLフィルター(偏光フィルター)を付け、モードをいろいろ動かしシャッタ−押しただけで決して出来上がりをパソコンで着色したりはしていない。それが多少見た目とは異なるにしても、少なくともカメラの眼を通して見た風景そのものなのだ。だから別に後日パソコンで人為的に着色したのではないかとの「偽装工作」とはちっと違う・・・・。
説明になったか? 
びっくり なってなくとも簡単ながら、これにて 怒り 。

   *** ご来場御礼 ***

前回のブログでも案内の通り、2月12日から18日まで我々写真クラブの写真展を開催しました。開催中の来場者は約550名とほぼ昨年と同じでした。多くの方々のご来場誠にありがとうございました。皆様の叱咤激励は今後の励みになります。ここに謹んで御礼申し上げる次第であります。

と言っても、私が個別に案内をしている方々を除いて、このブログを見て来てくれた人はゼロ人でした。(多分)さらに、当ブログの閲覧者は、ほとんどが私の知人、友人であり(多分)何もこのブログ上で改まって大仰に「ご来場御礼」を申し上げる必要もないのでありますがですね〜、そこはひとつ、自分自身のイベントを少しでも華やかに、そして形式ばって飾りたてて、いわば形を変えたこれこそホントの一つの完全なる「偽装工作」ってことでございましてですな〜。つまり、人間かくも弱く自己防衛・・・うんぬん、かんぬん・・・・。ま、つまり、これも一つの細道って事でございます。
ヤッタv


 






 
| 老真 | - | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
人生時計

  2016年1月23日 小石川 深光寺

新しい年を迎えたと思ったら、早くも4週間が過ぎた。正月、松の内の頃までは異常とも言っていいほどの暖冬。都内の銀杏の街路樹はまだ黄色い葉を残している所もあったし、近くの公園では蝋梅だけでなく、白梅も紅梅もほころんでいた。晩秋と初春が重なって四季の彩りが危うい。地球の温暖化はもしかしたら恐るべき速度で進んでいるのかも知れない。と、思っていたら今度は突然の寒波。雪が降ってきた。それでも忘れていた冬の寒さを体感し、オー、冬があったのかとむしろホットする。ともあれ、季節は突然、新たな舞台を創りだしながら駆け足で進む。あー、こうして人生時計の針も刻々と。と、まあちょっと刹那的新年。 



人の命を時計の24時間制の時刻に例える場合、年齢をで3で割った数を時間として表す事があるらしい。例えば60歳ならば3で割って20時。すなわち24時まであと4時間、つまり余命4時間ということらしい。そして私の場合は70歳。時計の針はなんと23時20分前後を指す。残された時間はもう1時間もないということになる。してみれば、残された時間を密度濃く過ごし、悔いのないラスト40分を全うすべきなのであろう。
少なくともテレビのドタバタバライティ番組など見て無為に過ごす時間は残されていないはずだ。が、これらの番組を「まったくつまらん!」と心の中で批判しつつも、チャンネルはそのままに結構夢中で見ている矛盾の中の自分がいる。こうしてためらいの中にも時は過ぎる。走馬灯の様に。

我々世代の集まりの中では決まって「年々時間が経つのが早く、1日があっと過ぎ1年が瞬く間に過ぎる」との会話が頻出する。少なくとも「近頃、めっきり時間経つのが遅くてね、一日がなかなか終わらん」。なんて事を言う人はこの世代ではまだお目にかかることはない。この速度、何とかならないものか。



 2016年1月23日 小石川植物園より

或る心理学者によると、歳を取るにつれ時間が経つのを早く感じる理由は「周りの世界が見慣れたものになってくると脳が取り込む情報量は少なくて済み、時間が速く過ぎ去っていくように感じる」となるらしい。してみれば、逆に周りの世界を見慣れないものにしていけば、脳は新たな情報の処理に時間を要し、時間の経過速度は抑えられる、という事になる。
それを実証すべく新年に当たって何か新たな経験をし、見慣れない世界へ足を伸ばす事を模索してみた。しかし、いきなり見慣れない世界へ踏み出すには、残り時間ゆえにやはりその意義と成果の事が頭をよぎる。妥協点があるとすれば、現状を少しだけ変える事を模索する、と言う事にした。

それで小さな変化に挑戦した。いつもの散歩道のコースを川の土手を下流から上流へと方向を変えた。朝のコーヒータイムの前の筋トレにストレッチを加えた、睡眠の友をラジオからスマホのYou Tubeの落語に変えた、風景写真を絞り優先からシャッタースピード優先に変えてみた。



  2016年1月23日 小石川植物園 鳥はハラシロ

こうして4週間。果たして時間の経過感覚は遅くなったのか・・・、それがですねー、全く変わらんとです。あっという間に4週間が経った。それはきっと時間も22時を過ぎれば、見慣れた走馬灯は加速度をつけて減速もままならないのであろう。件の心理学者はその事を見逃している。きっと彼の人生時計まだ20時前で加速度の法則を見落とした。

しかし、何も悲観することはない。人生時計にもサッカーやラグビーよろしくアディショナルタイムがある。それはきっと見慣れぬ世界へ踏み入れる度に増え続けるに違いないのだ。そう思って今年も見慣れぬ新たな世界へ模索していきたい。何事もポジティブにね。

って事で、今年も徒然なるままに、このブログを綴って行きます。
 


 2016年1月18日 我が家の近くで


   写真展開催のお知らせ

今年も私が所属する写真クラブが写真展を開催します。
未熟な作品ではありますが、近くにお出での際は是非
お立ち寄りください。
写真展の開催要領は次の通りです。

1.名称:第16回写写塾写真展
  「自然と共に・・・」

2.開催期間:
 2016年2月12日(金)〜2月18日(木)
 10時から17時

 
3.開催場所:
  富士フォトギャラリー新宿 
  新宿区新宿1-10-13 太田紙興新宿ビル1F 
  地下鉄丸の内線新宿御苑前2番出口徒歩2分 
  URLhttp://www.prolab-create.jp/gallery/shinjuku/

*私の作品は2点でタイトルは「照る山もみじ」と
「悠久の棚」です。 
| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ヒミコ(卑弥呼)のつぶやき

  2015年11月28日 糸島市白糸の滝

先月、故郷の友人トシユキ君に福岡の糸島市にある平原遺跡に案内してもらった。その遺跡に立って、遠く海の方角を見渡すと、古代のロマンが蘇り幻想、妄想が脳裏を駆ける。そしてあの卑弥呼のつぶやきが聞こえるのである。


”私はヒミコ。後世の人々からは卑弥呼と呼ばれているようです。しかし、卑弥呼とは魏人が勝手にそう呼んでいるだけで、私は卑弥呼ではないのです。そもそも、卑(卑しい)弥(満ちた)呼(呼ぶ)、つまり「卑しさに満ち溢れたと呼ばれる」なんて、自ら名乗る事などありえないし、なんとも失礼極まりない呼び方ではありませんか。私は卑弥呼ではないのです。私は’ヒミコ’なのです。私の時代まだ漢字はありませんでした。漢字が大和の国で使い始められたのは私が死んで2百年も後のことです。ですからそもそも卑弥呼なんて自虐的な名前は有り得ないのです。私は’ヒミコ’。しかし、これは名前ではありません。私の時代はまだ名前を付ける文化はありませんでした。ヒミコは名前ではなくて私の仕事。女の私だけが持っている特権的な仕事なのです。そう、私の仕事は祈祷師。これは私の時代では女だけが行うことができ、それで人を束ねる事ができたのです。そのお仕事を国の人々は’ヒミコ’と読んでいたのです。



いま、国と言いましたが、私の時代は勿論、国なんて言う概念は無かったのです。ましてや魏人が言う邪馬台国なんていう「国」はありません。これも魏人が勝手につけた名前です。考えても見てください。邪(よこしまな)馬の台の国、これだって恥辱に満ち溢れた名前です。まして、漢字も無いのにどうして邪馬台国なんて名乗れるでしょうか? 魏人の悪意に満ちた名付で、憤怒の念で一杯です。繰り返しますが、私の時代は漢字も国の概念もない時代です。近隣の全ての「国」も魏人が勝手につけたのです。ただ、私の周りには私の能力を慕って多くの人々が集まりました。私は、飢饉や災害や疫病を私の祈祷の力で平定しました。そしていつしか、数万もの人々が私に貢ぎ物をし、私はその中から飢えで苦しむ人々に分け与え、やがて自然と中央集権らしい組織が出来上がったのです。


      糸島市 二見が浦

さて、その私が束ねた「組織」の場所についてですが、その場所は正に今、貴方が立ってる、後に平原と呼ばれる場所でした。私は多くの年月をこの平原で過ごしました。ご覧なさい、この完璧な地形を。背後の三方は山、正面は海。背後ではよそ者の侵入を防ぎ、正面の海は大陸や朝鮮半島からの文化の受け入れ口。その中間は扇状に広がる平らな地。温暖な気候に加えて、海の幸、背後の山からの新鮮な水に肥沃な土地。これほど理想的な地形はありません。後世の学者達は私の在り処を探し求めて、やれ墳墓だ、やれ銅鏡だ、やれ絹だ、と自分の先入知識を正当化する為に、これらの物と私を強引に結びつけようと躍起ですが、これらの物は、何も私だけと関連する物ではありません。それよりも、もっとよく見てもらいたいのはこの地形です。この地形は正に’ヤマとタイラ’なのです。後世の漢字に当てはめるとすれば「山平ら国」。魏人はつまり山と平原に恵まれたこの地域の事「ヤマ・タイラ」を、発音だけを聞いて「邪馬台国」と身勝手な命名をしたのです。大国の驕り極めりです。そう、そしてお察しの通り、この「タイラ」こそ、後の人々が平原(ひらはら)と呼んだ場所なのです。


    平原遺跡付近から見る糸島平野

ですから、例えばこれからもロマンと郷愁を求めて私たちの事をあれこれ探し求められるとしたら、どうか「卑弥呼」とか「邪馬台国」なんていやな蔑称で呼ばないでください。それは図らずも、あなた方のロマンあふれる気持ちとは裏腹に矛盾に満ちた呼び方なのですよ。私はあくまでも’ヒミコ’、私たちの集団の住む「組織」は’ヤマタイラ’なのです。

これで、貴方が探している邪馬台国と卑弥呼の居場所が分かりましたね。でも、貴方は肝心の
魏志倭人伝に出てくる「親魏倭王」に与えたとする金印が見つからない限りは、やはり納得しないのでしょうね。勿論、私はその金印の在り処を知っていますよ。しかし、それは今は言えません。今言ってしまえば、何十年と追い続けたこられた「幻の国」が完全に幻でなくなり、多くの考古学者のロマンを失わせる事にもなります。そして、正直言って、本当に現実のものなってしまえば私の事さえも忘れ去られることが、ちょっと寂しいのです。ですから、ここでは言いません。それが、今や私に許された唯一の楽しみですからね。金印の在り処はヒミコのヒ・ミ・ツ。 あ、最後はヤマタイの長にはふさわしくない下衆な洒落で締めちゃった・・・・。”


     糸島市雷山山腹から見る糸島半島

勿論、以上は他愛のない幻想・妄想にほかならないが、確かに平原遺跡からの景色を眺めていると、7万戸が住んでいたとする邪馬台国の規模、地形からして、そこに卑弥呼がいて、邪馬台国があることが何だか最も適しているように覚えたのである。最も、そこにもどこか郷里に加担するという、偏見があるには違いないのだが・・・・。

トシユキ君に平原遺跡を案内してもらった翌日、今度は写真愛好家の友人Cさんにお願いして、福岡市郊外の志賀島に車で連れて行ってもらった。ここはヒミコのちょっと前に漢王から下賜されたという金印の漢委奴王印が出土したところである(卑弥呼の方は親魏倭王)。しかし、残念ながらこの志賀島の金印公園は改修中で閉鎖。何と、私にも金印は遠かった。Cさんとはその後志賀島から足を伸ばして津屋崎海岸を目指した。その時は夕陽の撮影を場所を探してのことだった。古代への幻想から現実の世界へ。そして現実にも時折、幻想・妄想が重なる。福岡に帰るとこれを繰り返す。


      糸島市 平原古墳




 
| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |