無料ブログ作成サービス JUGEM
←prev entry Top next entry→
ヒミコ(卑弥呼)のつぶやき

  2015年11月28日 糸島市白糸の滝

先月、故郷の友人トシユキ君に福岡の糸島市にある平原遺跡に案内してもらった。その遺跡に立って、遠く海の方角を見渡すと、古代のロマンが蘇り幻想、妄想が脳裏を駆ける。そしてあの卑弥呼のつぶやきが聞こえるのである。


”私はヒミコ。後世の人々からは卑弥呼と呼ばれているようです。しかし、卑弥呼とは魏人が勝手にそう呼んでいるだけで、私は卑弥呼ではないのです。そもそも、卑(卑しい)弥(満ちた)呼(呼ぶ)、つまり「卑しさに満ち溢れたと呼ばれる」なんて、自ら名乗る事などありえないし、なんとも失礼極まりない呼び方ではありませんか。私は卑弥呼ではないのです。私は’ヒミコ’なのです。私の時代まだ漢字はありませんでした。漢字が大和の国で使い始められたのは私が死んで2百年も後のことです。ですからそもそも卑弥呼なんて自虐的な名前は有り得ないのです。私は’ヒミコ’。しかし、これは名前ではありません。私の時代はまだ名前を付ける文化はありませんでした。ヒミコは名前ではなくて私の仕事。女の私だけが持っている特権的な仕事なのです。そう、私の仕事は祈祷師。これは私の時代では女だけが行うことができ、それで人を束ねる事ができたのです。そのお仕事を国の人々は’ヒミコ’と読んでいたのです。



いま、国と言いましたが、私の時代は勿論、国なんて言う概念は無かったのです。ましてや魏人が言う邪馬台国なんていう「国」はありません。これも魏人が勝手につけた名前です。考えても見てください。邪(よこしまな)馬の台の国、これだって恥辱に満ち溢れた名前です。まして、漢字も無いのにどうして邪馬台国なんて名乗れるでしょうか? 魏人の悪意に満ちた名付で、憤怒の念で一杯です。繰り返しますが、私の時代は漢字も国の概念もない時代です。近隣の全ての「国」も魏人が勝手につけたのです。ただ、私の周りには私の能力を慕って多くの人々が集まりました。私は、飢饉や災害や疫病を私の祈祷の力で平定しました。そしていつしか、数万もの人々が私に貢ぎ物をし、私はその中から飢えで苦しむ人々に分け与え、やがて自然と中央集権らしい組織が出来上がったのです。


      糸島市 二見が浦

さて、その私が束ねた「組織」の場所についてですが、その場所は正に今、貴方が立ってる、後に平原と呼ばれる場所でした。私は多くの年月をこの平原で過ごしました。ご覧なさい、この完璧な地形を。背後の三方は山、正面は海。背後ではよそ者の侵入を防ぎ、正面の海は大陸や朝鮮半島からの文化の受け入れ口。その中間は扇状に広がる平らな地。温暖な気候に加えて、海の幸、背後の山からの新鮮な水に肥沃な土地。これほど理想的な地形はありません。後世の学者達は私の在り処を探し求めて、やれ墳墓だ、やれ銅鏡だ、やれ絹だ、と自分の先入知識を正当化する為に、これらの物と私を強引に結びつけようと躍起ですが、これらの物は、何も私だけと関連する物ではありません。それよりも、もっとよく見てもらいたいのはこの地形です。この地形は正に’ヤマとタイラ’なのです。後世の漢字に当てはめるとすれば「山平ら国」。魏人はつまり山と平原に恵まれたこの地域の事「ヤマ・タイラ」を、発音だけを聞いて「邪馬台国」と身勝手な命名をしたのです。大国の驕り極めりです。そう、そしてお察しの通り、この「タイラ」こそ、後の人々が平原(ひらはら)と呼んだ場所なのです。


    平原遺跡付近から見る糸島平野

ですから、例えばこれからもロマンと郷愁を求めて私たちの事をあれこれ探し求められるとしたら、どうか「卑弥呼」とか「邪馬台国」なんていやな蔑称で呼ばないでください。それは図らずも、あなた方のロマンあふれる気持ちとは裏腹に矛盾に満ちた呼び方なのですよ。私はあくまでも’ヒミコ’、私たちの集団の住む「組織」は’ヤマタイラ’なのです。

これで、貴方が探している邪馬台国と卑弥呼の居場所が分かりましたね。でも、貴方は肝心の
魏志倭人伝に出てくる「親魏倭王」に与えたとする金印が見つからない限りは、やはり納得しないのでしょうね。勿論、私はその金印の在り処を知っていますよ。しかし、それは今は言えません。今言ってしまえば、何十年と追い続けたこられた「幻の国」が完全に幻でなくなり、多くの考古学者のロマンを失わせる事にもなります。そして、正直言って、本当に現実のものなってしまえば私の事さえも忘れ去られることが、ちょっと寂しいのです。ですから、ここでは言いません。それが、今や私に許された唯一の楽しみですからね。金印の在り処はヒミコのヒ・ミ・ツ。 あ、最後はヤマタイの長にはふさわしくない下衆な洒落で締めちゃった・・・・。”


     糸島市雷山山腹から見る糸島半島

勿論、以上は他愛のない幻想・妄想にほかならないが、確かに平原遺跡からの景色を眺めていると、7万戸が住んでいたとする邪馬台国の規模、地形からして、そこに卑弥呼がいて、邪馬台国があることが何だか最も適しているように覚えたのである。最も、そこにもどこか郷里に加担するという、偏見があるには違いないのだが・・・・。

トシユキ君に平原遺跡を案内してもらった翌日、今度は写真愛好家の友人Cさんにお願いして、福岡市郊外の志賀島に車で連れて行ってもらった。ここはヒミコのちょっと前に漢王から下賜されたという金印の漢委奴王印が出土したところである(卑弥呼の方は親魏倭王)。しかし、残念ながらこの志賀島の金印公園は改修中で閉鎖。何と、私にも金印は遠かった。Cさんとはその後志賀島から足を伸ばして津屋崎海岸を目指した。その時は夕陽の撮影を場所を探してのことだった。古代への幻想から現実の世界へ。そして現実にも時折、幻想・妄想が重なる。福岡に帰るとこれを繰り返す。


      糸島市 平原古墳




 
| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Comment
name:
email:
url:
comments:
Trackback
http://uryushinjiro.jugem.jp/trackback/170