無料ブログ作成サービス JUGEM
檸檬
 

               檸檬の記憶  老真    

「私」はその果物屋でレモンを買った。それから長い間そのレモンを握りながら、街を歩いていた。不思議な事に、それまで重くのしかかっていた憂鬱がそれを握った瞬間から紛らわされた。そして、しばらく歩いて丸善の前を通りかかった。どうした事だろう、最近はあんなにも避けていたはずの丸善が其の時の私には易々と入れるように思えた。私はずかずかと中に入った。

 

が、なぜだろう、今度は私の心を満たしていたあの幸福な感情は段々と逃げて行ってしまったのだ。私は美術書の棚から手当たり次第に本を取り出して、床に積み上げた。慌しく潰し、また慌しく積み上げた。奇怪な幻想的な城が、その度に赤くなったり青くなったりした。そしてやっとそれは出来上がった。軽く躍り上がる心を制しながら、その城壁の頂きにレモンを置いた。

 

私は変にくすぐったい気持ちがした。「出て行こうか。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。そして歩きながら思った。あの黄金色に輝くレモンが爆弾で、10分後にはあの丸善の美術の棚が大爆発をしたらどんなに面白いことだろう、と・・。 

 

 

      
         爆弾檸檬  老真

以上は、梶井基次郎の短編小説「檸檬」(大正
14年作)から若干アレンジして抜粋してつないでみた。梶井基次郎の事については以前、拙ブログで「桜の木の下には屍が埋まっている」とその一節を書いた。(08年5月3日桜を愛でる(4))。
この「檸檬」もまた、「桜の木の下」と同様に自分との距離を埋めるために‘美’を薄めて心理的な公平を模索し、やっと美しいものを直視できたのだろう。芸術でもあり心理でもあるのだろう。

 

その、梶井基次郎が実際に檸檬を買った京都の寺町通りの果物屋「八百卯(やおう)」が、去る126日に130年の幕を閉じた。時代の流れなのだろうか。八百卯にも時代という名の爆弾が仕掛けられただろか。いや、130年の時を考えると、店頭のレモンはきっと不発弾として、慎重に取り除く時期になっただけなのかもしれない。




           時が流れて   老真    
         
 我家にも檸檬が有った。二つ。 さて、どこに置こうか。


            檸檬の目玉  老真
            


| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
みちのく一人旅(3)
 
               会津若松  冬の柿

 

激しい雪が止んだ。一面に銀世界が残った。白い分厚い頭巾
を被せた
ような雪が屋根いっぱいを覆う。民家の軒下に積み
上げられた雪の上の
小さな窓からからは細い明かりが漏れ
る。白綿を貼り付けたような枝から、
赤いたわわな柿の実が
里を照らす。一筋の細道がゆるやかに曲がりながら森の中へ
消える
。道の上に1人の厚いマントを羽織った男の黒い影が
動く。男の行く
手には黒い雲と森。どこまで行こうとしてい
るのだろうか。もう日暮れ
も近いのに。


以上の情景は私のみちのく一人旅の事ではない。私の最も
好きな版画家、斎藤清の「雪の会津」と「柿の会津」の絵の情景
を重ねて想像して書いてみただけである。彼もまたこの会津
で生れた。この絵の情景に出会わないか。雪の会津を歩きな
がら思い浮かべるのは、いつも斎藤清の風景である。素朴で
幻想的。が、目の前の風景に
40年も前のこの風景を重ねる事
は出来ない。

わずかに,白
虎隊が自決した飯盛山を降りて、郡長正の眠
る天寧寺を目指し歩いていると道路脇に、たわわな実をつけ
た柿の木畑が有った。これが、長正が母親に無心した会津柿
かどうかは分からない。小粒ながら情熱の血を蓄えたように
赤い。柿の木の下には
50センチほどの雪が積もっている。
郡長正と斎藤清。時代を超えた景色の中で二人がわずかに
重なった。

 

 

      冬の柿 血を滴らせて 虎落笛    老真

さて、私のいつもの小旅行の目的は、あくまでも歩く事
である。歩く場所を求
めて冬は北へ。北への憧憬。
「雪国の辛さを知らない人だからそんな事を言うのだよ、
実際に雪国に住んでみると、そんな甘くないよ
」。
以前、雪国に住む人からそう言われた事があった。
そう
かも知れない。雪に不慣れな想定外の事が2つ有った。

 

(その1)

JR苗代湖から乗合バスで五色沼に向った。乗客は1人。
それもそのはずだ、五色沼入り口で下車すると吹雪。
1メートル以上の雪が積もっている。こんな雪深い時期
に五色沼など見学する者などいるはずがない。
100メートルほど先のビジターセンターに行くのもやっ
との事だ。しかし、意外にもビジターセンターには職員の
人が二人いた。


 「毘沙門沼には行けますか」
 
「入り口までは行けます」
 
「その先は」
 
「行けません」
 
「スノーシュー(かんじき)でも?」 

 「近くのホテルに行けば、ガイドが案内してくれることも
 有りますが、予約制で確か二人上いないと駄目です」

仕方ない。毘沙門沼には車道に戻って10分ほど歩いて沼の
入り口へ。
さらにホテル専用の道を数百メートル上って行くと
湖面を見下ろす場所についた。
 時折、強い風が木々から
雪を吹き付けてる。湖面を見下ろす高台の雪の中には足跡が
あった。足跡に沿って歩く。雪は深い。ズボズボと埋まる。
ゴアテックの靴でよかった。
しばらく行くと、黄色いロープ
が張っていて、足跡もロープの先にはない。戻る以外ない。
地図には道があっても、雪が降ると歩けない。なんとも単純
な事を計算していなかった。




         五色沼入口バス停付近 



       五色沼のひとつ 毘沙門沼

(その2)
猪苗代駅に戻って駅前食堂で昼食の後、野口英世記念館
まで約4キロを歩くつもりだった。が、食堂のおばさん
によれば「この雪だと歩けば2時間かかる」らしい。往復
は無理だ。まずはバスで野口記念館に。記念館を見学し
た後歩いて猪苗代湖畔に行くつもりで、地図に沿って道
を探したが有るべき道が無い。人通りない中で、ようや
く見つけた地元のおじさんに訪ねると、冬の間は湖畔へ
の道は通行止めとか。
湖畔に行くには、国道に出て4
キロ近くの長浜まで行かな
いといけないとのことだ。バスは2時間に一本。歩くしか
ない。これが、大変なことだった。


歩き始めた直後は、歩道も除雪されていて歩けたが、
しばらくすると歩道も深い雪に覆われていた。車道の雪を
歩道にかき寄せるので、歩道の雪は益々深くなる。
歩けない。
引き返そうか。が、待てよ。車道を走る車は
それほど多くない。車道を歩こう。確かに、車はそれほど
多くない。車と対面するように右側を歩いて、時折、車が
来ると、うず高く積もった歩道の雪の中に両足を突っ込ん
で避難。車が通り過ぎると、ツルツルの車道を滑らない
ように足早に歩く。少し前かがみになって、靴底全体を
同時に着地、それでいい。上手くなった。自然との智恵
くらべ。動物はこうやって進化を遂げる・・・。
こうやって歩くにも調子に乗り始めた頃、思わぬことが
起こった。

なんと前方から除雪車が来たのだ。除雪車は雪を勢いよく
歩道側に吹き飛ばしながらこちらに迫って来た。このまま
歩道に避難しても、あの噴射する雪に埋もれる。歩道の端
には柵がありその先への行く手をはばむ。逃げ場が無い。
除雪車は相変わらず轟音を立て激しい勢いで雪を吹き出し
ながらかなりのスピードで迫って来る。避けてくれるだろ
うか・・・。オイオイ、頼む、避けてくれ・・・。
やめてくれー・・。


      猪苗代湖 湖畔への道

  進化したばかりの歩きのテクニックが身を救った。滑らず
 に小走りに歩く事を可能にしていたのだ。とっさに後ろを
 見る。背後 から車は来ていたが、道路の幅は約10メートル。
 反対側まで3秒以内で道路を横切れば間に合う。躊躇は
 出来ない。走った。何秒かかったか分からない。気がついた
 時は、反対側の歩道に積み上げられていた雪の壁に飛び込ん
 で行っていた。


             猪苗代湖
        
    親子鳥 口開けそぞろに 冬の湖  老真
 
    
「そんな時は除雪車は除雪を止めてくれるよ。」

 乗客たった一人の帰りのバスの運転手は私のアドベン
チャー物語をいとも冷ややかに
切り替えした。


こうして、冬は北へ、の私のロマンは、北国の雪の前に無知
を曝け出し,ほろ苦いものとなった。でも、冬の北志向。
これに懲りる事は無い。




         猪苗代湖近く 天鏡閣(有栖川家別邸)

| 老真 | - | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
みちのく一人旅(2)

           天寧寺   


郡長正は会津若松市内の天寧寺
(曹洞宗)に眠る。この天寧寺、むしろ新撰組の近藤勇の墓、土方歳三の慰霊碑がある事の方が名が知れている。

雪道を登って天寧寺に着いた。寺に人影は無い。社務所なのか住いなのか、本堂の隣の家の玄関の扉を開けた。
住職らしい人が現れる。
来意を告げる。

「あー、わざわざ九州から。どうぞ、お上がりください」

玄関の土間に足を踏み入れた。清められた広い土間にトレッキングシューズに着いた雪が落ちた。慌ててもう一度外に出て靴の雪を落とす。住職は、幾つかの部屋を隔てて本堂につながる郡家の仏壇まで案内してくれた。郡家の仏壇はその本堂の大きな仏壇の脇に、やや小じんまりと控えていた。住職はそこまで案内すると戻って行った。一人で郡家の仏壇を前にした。仏壇の前に正座し線香に火をつける。煙がたなびき静寂が漂う。

郡家の仏壇には
10名くらいの位牌が並んでいる。
長正の位牌がどれなのか良く分からない。中に
女性の戒名の位牌が有る。長正の母親かも知れない。

仏壇の前で考えたのは、長正の母親の事であった。

母親は「会津魂を忘れたか」と叱責した。「若松城の篭城、白虎隊、斗南に逃れた人の事を思え」会津藩家老の妻の務めとして、そう言わざるを得なかった。今、こうやって一家がわずか数十センチの中に位牌となって並ぶ。

「長正、そうではなかったのに」

「母上、分かっているのです」

静謐な部屋の中に二人の声が聞える。

 

住職は隣の部屋で、お茶を淹れて待っていてくれた。もう一人若いお坊さんも一緒だった。

「ようやくここに来れました。実は、2年前もこちらに伺ったのです」

「あー,そうですか、わざわざ2度も九州から・・」

「今は埼玉にいるのです。子供の頃に小笠原藩の藩校が有った豊津にいました。そして私も、北九州の若松から豊津に転校しました。会津若松とは若松違いですが、特別な思いがあったのですから。実は2年前も、このお寺さんの前は通ったのですが、もう夕暮れだったので」

 

「私は、長正の母親の事が気になりますね」

「ま、長正の自刃は白虎隊の自決から3年しか経っていませんからね、時代的な背景も有ったのでしょう。それに、その頃、新政府は切腹禁止を説いていたので、まさか我が子が腹を切るとは思ってなかったのでしょう」

「あ、すると、長正は小笠原藩でけではく、新政府に抵抗しても、会津藩士として積年の恨みを示したかったのですかね」
住職は黙っていた。



           郡長正の墓 (天寧時の浦山)


いつの世も、人を動かす時代の流れがある。長正の頃も。

戊辰戦争敗戦の屈辱は、母や長正の心の中に色濃く残っていた。
しかし、多分それは武士としての純粋な矜持を持って。

翻って現代。人を動かす流れが速い。大量の情報が渦巻く。

人々はいとも簡単に情報のるつぼに嵌まる。

培養された情報がヒステリックな大衆の声に変わる。

完全無欠の仮面を被る大衆。うん、この自分も。

読み違い総理が使う「矜持」(きょうじ)の響きが虚しい。

そして|きょうじ」とすぐには読めなかった自分も空しい。


 

              天寧時近く


さて、みちのく一人旅。 次回は雪道歩きのアドベンチャー編です。 
 

 

| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
みちのく一人旅(1)
 

      会津若松城(鶴ヶ城)

明治の初め、戊申戦争で新政府と戦って破れた会津藩の国家老萱野権兵衛(かやのや ごんべい)の次男に郡長正(こおり ながまさ)という少年がいた。萱野姓ではないのは、父萱野権兵衛が戊辰戦争敗戦の責任を取って自刃し萱野家は家名断絶。その為に、以後は地元にちなむ郡姓を名乗った。戦いには敗れたが、両親からは会津藩の藩訓「ならぬことはならぬ」を基本とした厳しい教育のもとに育ち、文武に頭角を現した。
明治4年、同じ尊王攘夷派だった九州の小笠原藩に選抜されて留学する。15歳の時である。留学先の同級生達も多感な世代であったのだろう。長正は「よそもん(よそ者)」として嫌がらせや、いじめを受けた。「ならぬことはなぬ」。ひたすら会津士魂を胸に秘めて耐えた。しかし、ひとつだけ耐えられないことが有った。寮の食事が少ない。母であれば許してくれるだろう。そう思って、母親に「いつも空腹です。会津の柿を食べたい。」と泣きごとの手紙を出した。母ならば、との思いが有ったのだろう。しかし、母親は手厳しかった。「若松城に籠城した会津藩の苦しみを忘れたのですか。何と情けないことだ」と諭す。


 
             鶴ヶ城

長正はひと時でも会津士魂を見失ったことを悔いた。強く精進する。その思い持ち続ける為に、母からの戒めの手紙を肌身離さず懐に入れて持ち歩いた。悲劇はその為に起こった。その手紙を迂闊にも外で落としてしまい、小笠原藩の寮生に拾われてしまう。小笠原藩の寮生からの恰好のからかい材料だった。「会津の柿が食べたいのか。それが会津士魂か」。屈辱的な言葉だった。



              会津柿
 

「よし、ならば本当の会津士魂を見せてやる」。後日、会津藩、小笠原藩の対抗剣道試合があった。会津藩は全留学生の6名のみ。小笠原藩は多数から選抜された剣の使い手。もとより会津側に勝つ見込みはなかった。勝ち抜き戦の試合は予想通り小笠原藩の圧倒的有利の中で進んだ。小笠原藩は4名を残し、会津藩は大将の長正を残すのみだった。長正は腹を決めた。試合はどうなってもいい。会津士魂を見せるだけだ。不思議に無心になった。白虎隊の忠義が浮かんだ。鬼気がみなぎってきた。残る4人に対した。長正は4人を次々と一刀のもとに打倒した。4人は 一太刀も長正も身体に触れる事さえできない圧倒的な剣であった。が、長正に喜びはない。会津士魂は試合に勝つことではない。「ならぬことはならぬ」。ただ、その事だけだった。そして次の瞬間、長正は密かに持ち込んでいた真剣の小刀を抜いた。「これが会津士魂だ!」。そう叫んで思いきり自分の腹に剣を突き刺した。父に倣っての自刃。明治451日、長正16歳の春。会津士魂を示した。


        

 

私も、9歳の時、若松市(現在の北九州市)から長正が留学した豊津町(現在の福岡県京都郡みやこ町)の小学校に転校した。(郡長正は会津の若松からだが)。近くに小笠原藩の藩校思永斎(後の育徳館)があった。そして私も長正と同じように、転校生としての嫌がらせやいじめも受けたこともある。私が豊津にいたのは12歳までだが、そのような因縁もあり、少年時代から郡長正に強い関心を持っていたのである。


こうして、年末のいつもの「みちのく一人旅」は、会津若松を訪ねた。とは言っても、別に郡長正の事を更に研究するつもりはない。その時代を検証する基礎知識があるわけでもない。例によって、単純に、夏は暑い所へ、冬は寒い所への、私の歩きの哲学によって、この時期に北を選ぶ。そしてちょっとだけ、長正の名残りを求めて、雪の中を分け入ってみたかった。さて、その旅の顛末は次回に。

        



          会津柿




| 老真 | - | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |