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がんもどきの味(1)

   2013年1月23日  蝋梅  我家の近くで 

前にも書いたが、昨年の内視鏡検査で大腸にポリープが見つかった。調べたところ、現在では40歳以上の20%の人は大腸にポリープが有るとのことである。その確率に違わず、我が身の回りでもかなりの友人・知人、はたまた友人の知人達がポリ―プ切除経験者である事が分かった。そして、その多くが「ポリープなんて病気じゃないよ。吹出物みたいなものだから、チョチョンと切ってしまえばそれでおしまい。全く恐れずに足りずだよ」。と勇気づけてくれる。確かに、普通のポリープはそうなんだろう。ただ、私の場合、その大きさが2センチとかなり大きく、その場合、癌に進行する確率が40%と大きくなる。そして、私の回りのポリープの先輩達は誰もここまでの大きさには達していない。それが問題なのである。その事が昨秋のポリープ発見以来持ち続けているストレスなのだ。
 

 
このストレス。精神のバランスを保つ事を危うくさせる。例えば、こんな風に。

昨年の暮れに年末ジャンボ宝くじを10枚買った。ここ数年、この可能性のない夢からはすっかり冷めて買う事をしなかったのだが、くじ売り出し最終日であったその日、例によって都内を徘徊していた時に、ふと駅前の宝くじ売り場に差し掛かった。「今日が最終日」の張り紙は有ったのだが駅前なのに客は誰もいない。その時、なぜか「当たるかも知れない」との直感がよぎった。もっとも、これまでこの種の直感が当たった試しは無かったのだが、その時は静寂の中に何かに引き寄せられるような空気が流れ、これまで以上に直感が動き殆ど衝動的に買っていた。


       2012年年末ジャンボ宝くじ

しかし、買った後に後悔した。なぜ買ったのだろう、当たっても良い事なんてあるはずがない。それどころか人生バランス論からすれば、当たれば別の不幸がある。ストレスの仕業かどうか分からないが、その思いが強くなったのだ。そして、あの時の直感を思い出すたびに、さらに「この宝くじは当たっている」との思いも強くなった。我が身にはまさに獅子身中の虫である大腸ポリープがある。くじに当たる代わりに身中の虫が癌になる。願わくばこの宝くじが当たっていないように・・・。買った宝くじが当たらないでくれと願う、なんともへんてこな矛盾に満ちたことであるか。そしてまた、思いは続く。まてよ、この世には「無欲の利」ってものがあるではないか。こうやって慾がなくなってしまえば、逆に当たってしまうかもしれない・・・・。ほんなら、当たってくれって願うか・・・。うんにゃ、当たらないでくれ・・・・。 ???。

そして、この精神的バランスの危うさは、今度はついに現実の中に奇怪な現象として現れるのである。

元旦の朝。初日の出を見るべく、柳瀬川のいつもの散歩道を歩いた。途中で鎮守の森で初詣をすべく土手から少し外れて神社の方向に歩いた。いつもは歩かない道だ。道と言っても、ひと一人が通れるほどの幅しかなく、道の両端は雑草に蔽われている。そのわき道に入って数歩も行かないうち、ふと下を見ると道の端に何と鳩の屍骸が有ったのだ。生けるもの、全てに死は訪れる。この鳩も数年の命を精いっぱい生きたに違いない。ただ、いまだかって、この様に鳩の屍骸を道端で見た事はなかった。それに、いくら仏の教えが死は不浄なものではないと言っても、何も1年の最初のこの日に私の目の前に現れなくてもいいものを。年の初めは一富士、ニ鷹、三茄子でめでたく始まらなくてはならないものなのだ。Oh my God. 
 


が、まてよ、もしかしたら、本当に宝くじが当たっていて、その均衡を保つために、天が鳩の屍を置いた。とすればどうだろう。明治の作家、梶井基次郎は美しい物を見る時、自らの心身の醜さを悲観し美への嫉妬から、美との均衡を保つために敢えて正反対の存在を思い浮かべた。例えば美しい桜を見る時「桜の下には屍がある」と思いながら見たのである。私の場合、梶井基次郎とはちがって他動的なものだが、宝くじが当たった代わりに鳩の屍を見た。これでも均衡が保てる。つまり、鳩は宝くじと癌の関係の中に割って入った私の身代わりだったのかも知れない。そうすれば宝くじと鳩の因果で事は終結する。
ともあれ、神社では、家族の健康と自分の健康と、そして今見た可憐な鳩の為に清めを込めて手を合わせた。これでいいのだろうか。ん、まあ、諸行無常の響きに代えて。


          カンツバキ

しかし、現実は妄想的情理を嘲笑う。年が明けて宝くじの当選番号を調べてみた。当たったのはこれまでと同じ300円だけであった。あの時の直感は外れた。そして、宝くじと鳩との因果が崩れた。ならば、今度は鳩の屍骸とバランスを保つ別の吉祥が生じるのか? しかしながら、あにはからんや、16日からポリープ切除の為に入院した病院では逆に奇怪な出来事が起こった。妄想的情理とは異なる、それもこれまで体験した事がない無常な現実の出来事であった・・・・。 
(長くなったので、その事は次回に)


 2012年12月14日 いつもの散歩道 柳瀬川土手

 


  (タイトルをなぜ 「ガンモドキの味」 としたのかも次回に書きます)



 
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